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隆章山房から「登山紀行」「巡拝紀行」「時事評論」「スケッチ紀行」を連載します。ご笑覧下さい
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      ビギナーとベテラン 
      飯豊(いいで)山登頂記Ⅰ  

               もう秋か!
           それにしても何故永遠の太陽を惜しむのか?
           季節の上に死滅する人々から遠く離れ、
           神聖な光の発見に携わる身であるならば
             -A.ランボー『地獄の季節』(小林秀雄訳)-
         
  L'automne deja! 
            Mais pourquoi regretter un eternel soleil?
            si nous sommes engages a la decouverte
                de la clarte devine,
            loins des gens qui meurent sur les saisons
 
                          
A.Rimbaud“ Une Saison en Enfer”-

        
                                            残雪の大日岳

                ビギナーとベテラン二人

 06/7/21夕、本格登山ビギナー隆章は、新調した靴・シュラフの装備で意気揚々と阿倍野から山形行き近鉄高速バスに乗る。京都からKが乗車、早朝山形赤湯着、東京から夜行バスのNと合流。
 経験豊富なベテランK二人の意見で、当初予定の石転
(いしころ)
び沢からの縦走コースは残雪と岩の崩落で無理と判断、川入キャンプ場へ向かう。

                    帰れコールの予感
 標高7百mのキャンプ場着後、すぐテントを設営。(ビギナー隆章は、ここから頂上までの千4百mの高度差が如何にハードかをまだ知らない)
 携帯はすでに圏外マークビギナー隆章は自宅からの緊急連絡有無確認のため、キャンプ場から麓
(ふもと)の民宿へ電話を借りに片道2kmを往復する。

                   
                     感激の山男献立 
                  
 夕食は、最近料理教室へ通っているというN用意のウナギを丼に道中の民宿で調達した特産ナメコ入り味噌汁とレモン果汁酢の物という山男メニュー(君は昨日の夕食献立思い出せる?)に舌鼓(したつづみ)を打つ。 (以下次号)
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        行く者かくの如し 
      
-飯豊(いいで)山登頂記(完)-   
 
            秋だ 
            我らの小舟は動かぬ霧の中を昇りて
            悲惨の港に舳先を向け
              天空の巨大都市は火と泥に塗(まみ)る
                     -A.ランボー『地獄の季節』(山人拙訳)-

        L'automne.
         Notre barque eleve dans les brumes immobiles
        tourne vers le port de misere. 
           la cite enorme au ciel tache de feu et de boue
                          
A.Rimbaud“Une Saison en Enfer”-

       雪渓 
              
山頂直下雪渓

           
前号までのあらすじ
    06/7/21本格登山ビギナー隆章は山形行夜行
     バスに乗り、旧友の山行ベテランK・N二人と合流。
     ベース・キャンプを設営後、山男料理を楽しむが、
    なぜか緊急コールの予感がする。


                          陸奥は雨
 今夏の陸奥(みちのく:川入キャンプは福島、目指す飯豊山は山形)は雨続き。グルメ夕食後、K・N(ベテラン)と隆章(ビギナー)の三人は翌朝の早立に備え八時過ぎには寝袋に入ったが、すぐ雨粒がテントを叩き始め、屋根を透過した霧状の水滴が顔にかかる。雨の中を登る難儀を思うと隆章は少し気が滅入(めい)る。
 翌7月23日午前3時起床、雨は止んで星が見える!ヘッドランプを点けて朝食後テントを畳む。荷物を分担してリュックに詰め
(K・Nの配慮で隆章のリュックは缶ビールを入れても一番軽い!)
、4時過ぎには出発する。

                       行く者かくの如し
 一番重いリュックを背負いルートを先導するNの後姿には時に修行僧の風情が漂い、隆章の脱落を防ぎつつ殿
(しんがり)
を守るKは、百名山五十峰踏破の強者(つわもの)
 原生林の登りに喘いでいると、後方からKの「心経
(しんぎょう)」が聞こえてくるが、一番軽いはずの荷物が何故か肩から足に応(こた)え始めた隆章に唱和する余裕はない。
 ブナ林の湧水は山腹のオアシス、暫
(しば)し休息して迸(ほとばし)マイナスイオンを浴び、ミネラル分も吸収して生き返る。

                        シジフォスの苦役
 左右急峻な剣が峰は、隆章の腰高を危ぶんだNから三点支持法を即席指南されつつ越え、三国山荘前に這い登って昨夜のお握りで昼食。
 次の切合小屋は水が豊富だが、目指す主峰は一向に見えず、シジフォスの苦役にも似て折角
(せっかく)稼いだ高度を泣く泣く降り又登る尾根が続く。
 例年より多い沢の雪渓では冷気が微
(ひそ)かに流れ下り、小クレバスの間隙に滑落せぬよう靴先を蹴り込んで進む。
 片側が垂直に落ちる御秘所岩場は鎖にすがるが、やっと取り付いたピラミッド状本山斜面は岩の転がるジグザグ道で、隆章の足は歯痒
(はがゆ)くも限界寸前、傾斜に比例して頻繁(ひんぱん)に休憩するので殿のKも進むに進めぬ。


                           残雪の連峰
 ついに御前坂を越え、山頂に出る!小屋下にテントを設営、水場で飲み水と雪(ビール冷却用、Nの発案)を確保。
 2105mの頂上に立つと、東北屈指の山容を誇る残雪の飯豊連峰が雨上がりの光に輝く。
 早朝から実に12時間、高度差1400mを登り終えた
(読者諸賢の御推察通り、K・N二人の同行がなければ隆章は途中でギブアップしたに違いない!)
そこには穏やかな風景が広がっている。

                    祝杯、急転の下山行
 隆章に「緊急連絡」が入った
(麓で不通の携帯が頂上では圏内!)のは、三人がビールで祝杯を上げて間もなくだ。頂上は誰(た)そ彼(か)れ時で、すぐ下山はできぬ相談だ。
 そこで、二人が「明朝出立、明日中帰宅」という緊急行動を提案してくれたのだが、この案の唯一の見通しの甘さ、それは隆章の体力とりわけ脚力に対する過大評価だった!

 翌日は小雨、に前後を挟まれた隆章が疲労困憊(こんぱい)の極に(山は下りがキツイと肝に銘じよ!)麓にたどり着いたのは午後も3時!
 最短ルート
(磐越西線山都やまと~会津若松~郡山~東北新幹線~東京~新幹線or飛行機~大阪)でも、その日のうちの帰宅は不可能。
 の助言に従い、隆章が東京23時発寝台急行「銀河」で新大阪に着いたのは、山頂出発から実に丸一日以上経った25日早朝である。(完)

            壇の浦あはれ  
      -四国八十八ケ所巡拝同行略記ー 
  
                「見るべき程の事は見つ」
     壇の浦で二位の尼(清盛の妻)は、孫の安徳天皇(八歳)
     を抱き神器もろともに入水。一門の最後を見届けた
     平知盛辞世        (『平家物語』巻十一)
  


                  讃岐参り
 06神無月(かんなづき)、四国八十八箇所巡拝の旅に同行(どうぎょう)。フェリーで阿波(あわ:徳島)上陸、四国三郎(吉野川)沿いに讃岐(さぬき:香川)へ。
 各札所では山門で合掌一礼、水屋(みずや)で手と口を清め、本堂・大師堂に納札を奉じ、心経(しんぎょう)御詠歌(ごえいか)・真言(しんごん)を唱和する。

 
          「雲の辺(ほとり)の寺に来て」
 第六十六番雲辺寺(うんぺんじ)は、八十八箇所中の最高所(標高921m)別名四国高野、ロープウエイで一気に登ると五百羅漢(ごひゃくらかん:釈尊弟子)石像に迎えられる。
                                                               
                            雲辺寺五百羅漢群像

                だんの浦あはれ

 第八十四番屋島(やしま)寺は、文字通り屋島(江戸初め埋め立て陸続き)にあり、ガイド嬢曰く
 「天平(てんぴょう)時代鑑真和尚(がんじんわじょう)の開基、山上から源平古戦場屋島檀(だん)の浦を眼下に望む」と
     屋島から檀ノ浦を眼下に望む       『平家物語』で人口
 に膾炙(かいしゃ)する「那須与一扇の的」「義経弓流し」逸話の舞台だが、隆章寡聞(かぶん)、平家終焉地(しゅうえんち)長門(ながと)壇の浦と一字違同名地屋島にあるを不知(しらず)、蒙(もう)を啓(ひら)かれる。

 「だんの浦 藻屑(もくず)と消えし 公達(きんだち)あはれ
    神器(じんぎ)無き  帝(みかど)末裔(まつえい)  愈(いよいよ)あはれ
  言ふも 疎(おろ)か哉(なり)」  (隆章合掌)

   
幸せの黄色いお守り-番外こんぴらさん-
 初日の宿舎は、琴平(金刀比羅ことひら)宮お膝元のホテル。夜更け、近くでビル火災が発生、巡拝一行は各部屋の窓から鎮火までを目撃。
 二日目の早朝5時過ぎ、琴平宮お膝元のホテルフロントに一行の健脚有志善男善女(ぜんなんぜんにょ)が集合。    夜更けのビル火災  
 まだ暗い中「こんぴら名物」785段石段登りに挑戦。「しあわせさん こんぴらさん」の横断幕を潜って、象頭山(ぞうづざん:♪金毘羅船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ♪ 回れば 四国は讃州 那賀の郡 象頭山 金毘羅大権現♪)
  琴平本宮から早朝展望  
中腹標高251mの琴平本宮に参拝し、ガイド嬢お勧めの「幸せの黄色いお守り」
(値800円!)をゲット。隆章奥の院まで足を延ばす。







  「崔嵬(さいかい)の嶮岨(けんそ)
      -熊野古道紀行Ⅱ-       

         
梧陵(ごりょう)表敬-プロローグ-
     6月初旬、山人の友人で熊野古道全路踏破を目指す
        7名が大阪から訪れた。
     6/7(土)、宮原駅を12時に出発した一行は有田川を
     渡り、得生寺から糸我峠を越え、15時湯浅駅着。
      ここから一旦古道を離れ、足を伸ばして山人奨める
     広梧陵記念館を表敬訪問、広堤防も見学した後、
     再び湯浅駅に戻り津兼王子までのルートを辿る。

       (広八幡「勝海舟 梧陵濱口君顕彰碑」は時間不足で割愛)

            満山蛍光
 ホタルの湯で入浴&食事後、20時送迎バスで名物ホタル狩へ。この夜、岩淵地区に飛ぶホタルは「今シーズンピーク、5977匹(!)をカウント(T中学校ホームページ)し、谷合の清流から湧き上がるホタルが山腹を明滅飛翔乱舞する様に、「生まれて初めて見る壮観」という感嘆の声が一行から上がる。

            夜会朝会
 宿舎の圓光寺で一行を待っていたのは夜のミーテイング。翌日の語り部ボランテイア・ガイドをお願いしたS氏が事前に届けてくれた10枚(!)の鹿ヶ瀬(ししがせ)峠資料を読み合わせる。
 翌6/8、朝のお勤め後、一行を観音堂に案内した山人、白河法皇縁
(ゆかり)の十一面観音様の解説に力が入る。


         飢饉(ききん)供養(くよう) 
 津兼(つがね)王子から再出発して「井関絵巻」前を過ぎ、旧旅籠藤屋でS・M両語り部と合流、河瀬(ごのせ)橋、ツノセ
(河瀬)王子前で早速説明を聞く。       天保飢饉供養碑道標
 それによれば、河瀬橋はもと板橋
(流れ橋)袂の石道標は天保8年飢饉被災者供養碑を兼ね、徳本上人御名(南無阿弥陀仏)を刻む。
 山人手元にあるT氏の過去帳調査によれば、江戸時代四大飢饉のうち幕末天保の飢饉が被害甚大だが、中でも地元では天保8年がもっとも過酷で、100戸当たり42人という高死亡率の飢餓地獄に見舞われた。同年の当山過去帳も記録的な25名を記載しその惨状が窺える
(合掌)

            旅情今昔
 語り部S氏によれば、鹿ヶ瀬
(ししがせ)峠が世界遺産登録に
漏れた理
由は、古道の修復不備(過剰?)だ。嘗て定家が「崔嵬
   峠南側に続く苔生す石畳        (さいかい)嶮岨(けんそ)(『明月記』)
と嘆いた難所の峠も、なるほど北側路面は舗装されて古道の趣に乏しいが、対照的に南斜面は古道最長の石畳坂が樹林の中数百mも屈曲して続き、時に苔生こけむして風情豊かだ。
 近世の鹿ヶ瀬は藩の幹線路として賑わい、明治に開かれた沿岸航路が欠航した時、旅のサーカス団の象も越えたという
(語り部資料「最後の峠茶屋U氏談」)

 
洋の東西、時代とスケールこそ違え、峠には特有の旅情が漂う。象の峠越え
(古代カルタゴの知将ハンニバル)
で世に名高いアル
プス
には、やはり石畳が現存し、シーザーナポレオンの馬車の轍
(わだち)も刻まれていると聞く。
 一行は麓の金魚茶屋で語り部と別れ、この日の道程14㎞のゴール内原駅を目指す
 









       「佛は細部に宿る(一)」 
           -耳障りな「ニッポン」コール-  
         
                
「陶子さん、貴女もか?」
     今日(06/10/20)、NHKの特集番組「日本の力(?)」で、
    不肖(ふしょう)山人が秘かにファンを自認する武内陶子アナウン
    サーが、「ニッポンのお米はー」と連呼するのを聞いて、黙って
    いられなくなって、とうとう「禁断の木の実」である「時事評論」の
    カテゴリーを追加して投稿した次第。
     以前から、NHK「その時歴史は動いた」の松平某アナウンサーが
    日本を「ニッポン」読み一点張りで発音しているのが真(まこと)に
    耳障(みみざわ)りであったが、「親愛なる陶子アナウンサー、貴女
    もか?」である。


        「美しい」は美しくない
 いつからNHKは誰に断って、どういう基準で「日本」の発音を「ニッポン」に統一することに決めたのか?
 どんな場合でも「日本」を「ニッポン」と読めというアナウンサーへの乱暴な強制は、日本語
(にほんご!)の自然な響きに対する鈍感さ以外の何者でもない。
 断っておくが、不肖(ふしょう)山人は決して「美しい日本語(にほんご)」論者ではない。「美しい」という自画自賛が決して「美しくない」ことは、かつて「美しい日本
これは「にほん」と読むのであって、まさか「ニッポン」ではないですよね、文豪!の私」と題して講演ノーベル賞受賞式した川端康成が自死で生涯を閉じ、又卑近な例では、先般「絆創膏王子」の道化も登場した「美しい国」賛美のA倍某が政権を最後に投げ出したのを見ればわかる(直近の「偽装閉店」辞任茶番劇を演じた自民F田某が「美しい国」賛美者でなかったのは不幸中の幸い以て瞑すべしか。山人、先日「完全閉店セール」なる看板を掲げる量販店に遭遇、巷の「閉店セール」がここまで進化していることに敬服しつつ、「偽装閉店」喜劇の結末は、幕間にA生某の「新装開店」笑劇を挟んで、もはや「完全閉店」の悲劇しかないと見た。諸君、馬克思「歴史は繰り返す」の箴言結びをこう書き替えよう、「一度目は喜劇として、二度目は悲劇として」と!/08神無月追白)
 かのグリムでも「鏡よ、鏡よ、鏡さん、世界で一番美しいのは誰?」と自惚れるのは「性悪××」と相場が決まっている。自称「美しい××」はどうやら破綻するらしいのだ。
         佛は細部に宿る
 閑話休題。だが、事はわが血肉である「日本語にほんご)」の微妙な「音感」の問題であり「聴き捨て」ならぬ。たかが、「ニッポンNIPPON」と「ニホンNIHON」の違いではないか、と曰(のたま)う御仁(ごじん)がいるかも知れぬが、この僅かな一音の差異にこそ言葉の命が宿ると知るべし。
          虚勢の必然

 何故「ニッポン」という促音便に統一したのか、恐らく音的に威勢がいいという度(ど)し難(がた)くも単純な発想だろう。考えてもみたまえ、「ニッポン」と発声する時、声帯が力み、喉の強(こわ)ばりが肩を怒らせ、肩の緊張で肘まで突っ張るだろう。大仰(おおぎょう)と言うことなかれ、「肩肘張る」のは、人間が虚勢を張る時の必然な機制(メカニズム)だ。
 「大日本帝国」は99%「だい
ニッポンていこく」と読まれる、「だいニホン」と柔らかく読んだのでは、折角「大」と文字通り大きく出て踏ん反り返った甲斐がないからだ。「ニッポン」には、「Great Britain」同様、自称「グレートの歴史的尊大さが染みこんでいる。
 「ニホン」と柔らかく発音することが相応
(ふさわ)しい「文脈」
前後の音と音のつながりだから「音脈」と言うべきか)でもそれを無視し、一律に硬直した「ニッポン」読みを押しつけるのは、文化の何たるかを弁(わきま)えぬ野蛮、時代遅れの言語権威主義に他ならぬ。「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の住人として、恥ずべし。
隆章山房へ、ようこそ!
プロフィール
HN:
隆章山人拙画 「吉野西行庵への道」
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/01/05
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