「崔嵬(さいかい)の嶮岨(けんそ)」
-熊野古道紀行Ⅱ-
梧陵(ごりょう)表敬-プロローグ-
6月初旬、山人の友人で熊野古道全路踏破を目指す
7名が大阪から訪れた。
6/7(土)、宮原駅を12時に出発した一行は有田川を
渡り、得生寺から糸我峠を越え、15時湯浅駅着。
ここから一旦古道を離れ、足を伸ばして山人奨める
広梧陵記念館を表敬訪問、広堤防も見学した後、
再び湯浅駅に戻り津兼王子までのルートを辿る。
(広八幡「勝海舟 梧陵濱口君顕彰碑」は時間不足で割愛)
満山蛍光
ホタルの湯で入浴&食事後、20時送迎バスで名物ホタル狩へ。この夜、岩淵地区に飛ぶホタルは「今シーズンのピーク、5977匹(!)をカウント」(T中学校ホームページ)し、谷合の清流から湧き上がるホタルが山腹を明滅飛翔乱舞する様に、「生まれて初めて見る壮観」という感嘆の声が一行から上がる。
夜会朝会
宿舎の圓光寺で一行を待っていたのは夜のミーテイング。翌日の語り部ボランテイア・ガイドをお願いしたS氏が事前に届けてくれた10枚(!)の鹿ヶ瀬(ししがせ)峠資料を読み合わせる。
翌6/8、朝のお勤め後、一行を観音堂に案内した山人、白河法皇縁(ゆかり)の十一面観音様の解説に力が入る。
飢饉(ききん)供養(くよう)
津兼(つがね)王子から再出発して「井関絵巻」前を過ぎ、旧旅籠藤屋でS・M両語り部と合流、河瀬(ごのせ)橋、ツノセ(河瀬)王子前で早速説明を聞く。 天保飢饉供養碑道標
それによれば、河瀬橋はもと板橋(流れ橋)、袂の石道標は天保8年飢饉被災者供養碑を兼ね、徳本上人御名号(南無阿弥陀仏)を刻む。
山人手元にあるT氏の過去帳調査によれば、江戸時代四大飢饉のうち幕末天保の飢饉が被害甚大だが、中でも地元では天保8年がもっとも過酷で、100戸当たり42人という高死亡率の飢餓地獄に見舞われた。同年の当山過去帳も記録的な25名を記載しその惨状が窺える(合掌)。
旅情今昔
語り部S氏によれば、鹿ヶ瀬(ししがせ)峠が世界遺産登録に
漏れた理由は、古道の修復不備(過剰?)だ。嘗て定家が「崔嵬
峠南側に続く苔生す石畳 (さいかい)の嶮岨(けんそ)」(『明月記』)と嘆いた難所の峠も、なるほど北側路面は舗装されて古道の趣に乏しいが、対照的に南斜面は古道最長の石畳坂が樹林の中数百mも屈曲して続き、時に苔生(こけむ)して風情豊かだ。
近世の鹿ヶ瀬は藩の幹線路として賑わい、明治に開かれた沿岸航路が欠航した時、旅のサーカス団の象も越えたという(語り部資料「最後の峠茶屋U氏談」)。
洋の東西、時代とスケールこそ違え、峠には特有の旅情が漂う。象の峠越え(古代カルタゴの知将ハンニバル)で世に名高いアル
プスには、やはり石畳が現存し、シーザーやナポレオンの馬車の轍(わだち)も刻まれていると聞く。
一行は麓の金魚茶屋で語り部と別れ、この日の道程14㎞のゴール内原駅を目指す。