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隆章山房から「登山紀行」「巡拝紀行」「時事評論」「スケッチ紀行」を連載します。ご笑覧下さい
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            壇の浦あはれ  
      -四国八十八ケ所巡拝同行略記ー 
  
                「見るべき程の事は見つ」
     壇の浦で二位の尼(清盛の妻)は、孫の安徳天皇(八歳)
     を抱き神器もろともに入水。一門の最後を見届けた
     平知盛辞世        (『平家物語』巻十一)
  


                  讃岐参り
 06神無月(かんなづき)、四国八十八箇所巡拝の旅に同行(どうぎょう)。フェリーで阿波(あわ:徳島)上陸、四国三郎(吉野川)沿いに讃岐(さぬき:香川)へ。
 各札所では山門で合掌一礼、水屋(みずや)で手と口を清め、本堂・大師堂に納札を奉じ、心経(しんぎょう)御詠歌(ごえいか)・真言(しんごん)を唱和する。

 
          「雲の辺(ほとり)の寺に来て」
 第六十六番雲辺寺(うんぺんじ)は、八十八箇所中の最高所(標高921m)別名四国高野、ロープウエイで一気に登ると五百羅漢(ごひゃくらかん:釈尊弟子)石像に迎えられる。
                                                               
                            雲辺寺五百羅漢群像

                だんの浦あはれ

 第八十四番屋島(やしま)寺は、文字通り屋島(江戸初め埋め立て陸続き)にあり、ガイド嬢曰く
 「天平(てんぴょう)時代鑑真和尚(がんじんわじょう)の開基、山上から源平古戦場屋島檀(だん)の浦を眼下に望む」と
     屋島から檀ノ浦を眼下に望む       『平家物語』で人口
 に膾炙(かいしゃ)する「那須与一扇の的」「義経弓流し」逸話の舞台だが、隆章寡聞(かぶん)、平家終焉地(しゅうえんち)長門(ながと)壇の浦と一字違同名地屋島にあるを不知(しらず)、蒙(もう)を啓(ひら)かれる。

 「だんの浦 藻屑(もくず)と消えし 公達(きんだち)あはれ
    神器(じんぎ)無き  帝(みかど)末裔(まつえい)  愈(いよいよ)あはれ
  言ふも 疎(おろ)か哉(なり)」  (隆章合掌)

   
幸せの黄色いお守り-番外こんぴらさん-
 初日の宿舎は、琴平(金刀比羅ことひら)宮お膝元のホテル。夜更け、近くでビル火災が発生、巡拝一行は各部屋の窓から鎮火までを目撃。
 二日目の早朝5時過ぎ、琴平宮お膝元のホテルフロントに一行の健脚有志善男善女(ぜんなんぜんにょ)が集合。    夜更けのビル火災  
 まだ暗い中「こんぴら名物」785段石段登りに挑戦。「しあわせさん こんぴらさん」の横断幕を潜って、象頭山(ぞうづざん:♪金毘羅船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ♪ 回れば 四国は讃州 那賀の郡 象頭山 金毘羅大権現♪)
  琴平本宮から早朝展望  
中腹標高251mの琴平本宮に参拝し、ガイド嬢お勧めの「幸せの黄色いお守り」
(値800円!)をゲット。隆章奥の院まで足を延ばす。







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  「崔嵬(さいかい)の嶮岨(けんそ)
      -熊野古道紀行Ⅱ-       

         
梧陵(ごりょう)表敬-プロローグ-
     6月初旬、山人の友人で熊野古道全路踏破を目指す
        7名が大阪から訪れた。
     6/7(土)、宮原駅を12時に出発した一行は有田川を
     渡り、得生寺から糸我峠を越え、15時湯浅駅着。
      ここから一旦古道を離れ、足を伸ばして山人奨める
     広梧陵記念館を表敬訪問、広堤防も見学した後、
     再び湯浅駅に戻り津兼王子までのルートを辿る。

       (広八幡「勝海舟 梧陵濱口君顕彰碑」は時間不足で割愛)

            満山蛍光
 ホタルの湯で入浴&食事後、20時送迎バスで名物ホタル狩へ。この夜、岩淵地区に飛ぶホタルは「今シーズンピーク、5977匹(!)をカウント(T中学校ホームページ)し、谷合の清流から湧き上がるホタルが山腹を明滅飛翔乱舞する様に、「生まれて初めて見る壮観」という感嘆の声が一行から上がる。

            夜会朝会
 宿舎の圓光寺で一行を待っていたのは夜のミーテイング。翌日の語り部ボランテイア・ガイドをお願いしたS氏が事前に届けてくれた10枚(!)の鹿ヶ瀬(ししがせ)峠資料を読み合わせる。
 翌6/8、朝のお勤め後、一行を観音堂に案内した山人、白河法皇縁
(ゆかり)の十一面観音様の解説に力が入る。


         飢饉(ききん)供養(くよう) 
 津兼(つがね)王子から再出発して「井関絵巻」前を過ぎ、旧旅籠藤屋でS・M両語り部と合流、河瀬(ごのせ)橋、ツノセ
(河瀬)王子前で早速説明を聞く。       天保飢饉供養碑道標
 それによれば、河瀬橋はもと板橋
(流れ橋)袂の石道標は天保8年飢饉被災者供養碑を兼ね、徳本上人御名(南無阿弥陀仏)を刻む。
 山人手元にあるT氏の過去帳調査によれば、江戸時代四大飢饉のうち幕末天保の飢饉が被害甚大だが、中でも地元では天保8年がもっとも過酷で、100戸当たり42人という高死亡率の飢餓地獄に見舞われた。同年の当山過去帳も記録的な25名を記載しその惨状が窺える
(合掌)

            旅情今昔
 語り部S氏によれば、鹿ヶ瀬
(ししがせ)峠が世界遺産登録に
漏れた理
由は、古道の修復不備(過剰?)だ。嘗て定家が「崔嵬
   峠南側に続く苔生す石畳        (さいかい)嶮岨(けんそ)(『明月記』)
と嘆いた難所の峠も、なるほど北側路面は舗装されて古道の趣に乏しいが、対照的に南斜面は古道最長の石畳坂が樹林の中数百mも屈曲して続き、時に苔生こけむして風情豊かだ。
 近世の鹿ヶ瀬は藩の幹線路として賑わい、明治に開かれた沿岸航路が欠航した時、旅のサーカス団の象も越えたという
(語り部資料「最後の峠茶屋U氏談」)

 
洋の東西、時代とスケールこそ違え、峠には特有の旅情が漂う。象の峠越え
(古代カルタゴの知将ハンニバル)
で世に名高いアル
プス
には、やはり石畳が現存し、シーザーナポレオンの馬車の轍
(わだち)も刻まれていると聞く。
 一行は麓の金魚茶屋で語り部と別れ、この日の道程14㎞のゴール内原駅を目指す
 









  平安朝『華麗なる一族』 
     -熊野古道紀行(一)-       

          DSCF0817.JPG        

               龍頭山観音堂天蓋図1

     プロローグー十一面観音紀行ー

    「海青し 山青し 空青し」と紀州出身の佐藤春夫が詠んだ
     半島の重畳(ちょうじょう)たる山塊、その中央部に聳(そび)える
     護摩壇(ごまだん)山系からほぼ真西に伸びる白馬(しらま)
     山脈(やまなみ)は、半島西縁(べり)の狭い海岸線が迫ると、
     低いが入り込んだ谷を刻み、時に急峻な山容を見せる。

 この白馬(しらま)山脈の最西端に、熊野古道難所の一つ、嘗(かつ)て定家も『明月記』に「崔嵬(さいかい)の嶮岨(けんそ)とその険峻な様を記した鹿ヶ瀬
(ししがせ)峠がある。
 南下する熊野古道がこの
峠越えにかかる少し手前の谷間(たにあい)古道に平行する広川の流れが小高い龍頭山(りょうづざん:川の流れを龍身に、台地を龍頭に見立てた卓抜な命名の山号)の崖にぶつかって蛇行する。
DSCF0198.JPG 近年、湾曲部の淵に復活した蛍が舞うのが見られる。
  この山上境内の小堂に十一面観世音菩薩像
(左写真:法量180㎝) 
を祀(まつ)る。
 
最近、この「観音堂縁起
(えんぎ)を『寺だより』であらためて紹介したところ、四十年来の旧友K氏が、「是非息子を連れて拝観したい」と大阪から尋ねて来られた。         
  この息子のT君、我が愚息と同じ   「団塊ジュニア」、所謂
(いわゆる)
龍頭山十一面観世音菩薩像  「ロス・ジェネ」、 つまり現代版「迷える衆生(しゅじょう)世代だが、殊勝なことに仏像彫刻の道を志し、特に十一面観音に関心があるという。
 そこで先ず、秀麗な千手十一面観音で有名な近隣の手眼寺
(しゅげんじ)に案内し、堂守のMさんに御開帳をお願いして拝観し、次いで、当山十一面観音発祥の稲荷(いなり)神社に立ち寄った後、いよいよ、当山自慢の観音様に対面していただいた次第。   手眼寺千手十一面観音像  

            霊泉の験(しるし)ー法皇道心ー     

 抑
(そもそも)当山観音像の濫觴(らんしょう)を尋ねれば、今から880年前、平安時代も後期の大治二(1127)年、時の白河法皇が第十一回熊野御幸(法皇の熊野参詣は、『県聖跡』によれば十二回を数え、この時の一行には鳥羽上皇と中宮待賢門院璋子{たいけんもんいんしょうし}が同道、2月3日に京の都を出発、同27日に帰洛)の途次体調を崩し、この地で休息、一老翁(白狐の化身とされる)が献上した霊泉の水を飲んで回復したので、その返礼に、翌1128年法皇最後の熊野参詣時(法皇没年は1129)、稲荷(いなり)社を建立し(建立奉行は湯浅五郎正宗)、本地仏(当時の神仏習合思想)として十一面観音像
(聖徳太子御作!として崇められたという)
を造立した故事
  白河法皇建立稲荷社(山人拙画)     にある。

       
         平安朝『華麗なる一族』 

 この稲荷社と十一面観音のスポンサーとなった白皇法皇は、ご存じの通り、院政の確立者にして希代のワンマン権力者、いわば平安朝「華麗なる一族」のトップスターで、その奔放さは他に類例を見ず、近頃キムタク&欣也・コンビで高視聴率を稼いだと評判になった平成版「華麗なる一族」もその比ではない。
 例えば、『平家物語』は、法皇が寵愛した「祇園の女御
(にょうご)」を院の侍だった平忠盛に与え、後に清盛となる法皇の子が生まれたという、清盛御落胤(ごらくいん)説を採るが、この白河法皇その人と、熊野参詣に五度同道させた孫の鳥羽上皇、そしてその后(中宮)の待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)の三角関係については、現代人よりはるかに大らかな恋愛観を持っていたという平安人も流石(さすが)に眉を顰
(ひそ)
めたらしい。
 法皇は養女の璋子
(たまこ)を幼い頃から溺愛し、十七歳になった璋子を十五歳の孫、鳥羽天皇の中宮とした後も同居する無軌道ぶりで、生まれた第一皇子は実は法皇の子といわれ、鳥羽天皇も「おじ子(祖父白河の息子だから叔父でもある我が子)」と皮肉に呼んで疎
(うと)
んじたが、皇子が五歳になると法皇は鳥羽に替えて崇徳天皇として即位させてしまう。
 これを恨んだ鳥羽は、法皇が死ぬと今度は「おじ子」崇徳を天皇位から下ろし、外された崇徳はやがて「保元の乱」を起こすが敗北、配流地讃岐で憤死して怨霊伝説の主となる。
 璋子
(たまこ)自身もとかく恋多き女といわれ、今『朝日』連載中の夢枕獏作『宿神』では、璋子(たまこ)への想いを募らせる佐藤義清
(のりきよ:後の西行法師)
を呼び出し密会するという、小説らしく踏み込んだ趣向が記憶に新しい。

    エピローグー兵火・廃佛そして再生

 観音造立から
224年経った1352年、熊野別当蜂起の兵火で社もお堂も焼失し、以後仮堂舎時代が長く続くが、江戸の元和五
(1619)年頃再建(天蓋図1・2)安永三(1774)年に「霊泉寺」の寺号を許される

 明治の「神仏分離
(廃佛棄釈はいぶつきしゃく)令」で霊泉寺は廃寺となり、明治十
(1881)年創立された當村分校(山人母校)の校舎として使用されたが、観音堂と十一面観音像は、明治四十三(1910)
年、當寺境内へ移築され、今日に至る。    観音堂天蓋図2   
 実は、前述の『寺だより』「観音縁起」記事では、「稲荷の観世音」に寄せられている信仰を曇らせるのではとの狭量なる懸念から、上記のような寄進主法皇の行状について触れなかった次第。
 近年のエピソード一題。この観音様が一時姿を隠された、早い話「近頃都に流行
(はや)る」金属窃盗ならぬ、古仏窃盗の憂き目
    
観音堂        に遭われた訳だが、幸い「大慈大悲の観音力」によってであろう、無事御堂に戻られたその御姿を拝見すると、御鼻の一部欠けていた箇所が何故か綺麗に直っていたという後日譚
(ごじつたん)
がある。
 世界遺産熊野古道散策の折、是非御拝観被下
(くだされたく)御待申上候 (隆章山人九拝)
隆章山房へ、ようこそ!
プロフィール
HN:
隆章山人拙画 「吉野西行庵への道」
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/01/05
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