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隆章山房から「登山紀行」「巡拝紀行」「時事評論」「スケッチ紀行」を連載します。ご笑覧下さい
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  平安朝『華麗なる一族』 
     -熊野古道紀行(一)-       

          DSCF0817.JPG        

               龍頭山観音堂天蓋図1

     プロローグー十一面観音紀行ー

    「海青し 山青し 空青し」と紀州出身の佐藤春夫が詠んだ
     半島の重畳(ちょうじょう)たる山塊、その中央部に聳(そび)える
     護摩壇(ごまだん)山系からほぼ真西に伸びる白馬(しらま)
     山脈(やまなみ)は、半島西縁(べり)の狭い海岸線が迫ると、
     低いが入り込んだ谷を刻み、時に急峻な山容を見せる。

 この白馬(しらま)山脈の最西端に、熊野古道難所の一つ、嘗(かつ)て定家も『明月記』に「崔嵬(さいかい)の嶮岨(けんそ)とその険峻な様を記した鹿ヶ瀬
(ししがせ)峠がある。
 南下する熊野古道がこの
峠越えにかかる少し手前の谷間(たにあい)古道に平行する広川の流れが小高い龍頭山(りょうづざん:川の流れを龍身に、台地を龍頭に見立てた卓抜な命名の山号)の崖にぶつかって蛇行する。
DSCF0198.JPG 近年、湾曲部の淵に復活した蛍が舞うのが見られる。
  この山上境内の小堂に十一面観世音菩薩像
(左写真:法量180㎝) 
を祀(まつ)る。
 
最近、この「観音堂縁起
(えんぎ)を『寺だより』であらためて紹介したところ、四十年来の旧友K氏が、「是非息子を連れて拝観したい」と大阪から尋ねて来られた。         
  この息子のT君、我が愚息と同じ   「団塊ジュニア」、所謂
(いわゆる)
龍頭山十一面観世音菩薩像  「ロス・ジェネ」、 つまり現代版「迷える衆生(しゅじょう)世代だが、殊勝なことに仏像彫刻の道を志し、特に十一面観音に関心があるという。
 そこで先ず、秀麗な千手十一面観音で有名な近隣の手眼寺
(しゅげんじ)に案内し、堂守のMさんに御開帳をお願いして拝観し、次いで、当山十一面観音発祥の稲荷(いなり)神社に立ち寄った後、いよいよ、当山自慢の観音様に対面していただいた次第。   手眼寺千手十一面観音像  

            霊泉の験(しるし)ー法皇道心ー     

 抑
(そもそも)当山観音像の濫觴(らんしょう)を尋ねれば、今から880年前、平安時代も後期の大治二(1127)年、時の白河法皇が第十一回熊野御幸(法皇の熊野参詣は、『県聖跡』によれば十二回を数え、この時の一行には鳥羽上皇と中宮待賢門院璋子{たいけんもんいんしょうし}が同道、2月3日に京の都を出発、同27日に帰洛)の途次体調を崩し、この地で休息、一老翁(白狐の化身とされる)が献上した霊泉の水を飲んで回復したので、その返礼に、翌1128年法皇最後の熊野参詣時(法皇没年は1129)、稲荷(いなり)社を建立し(建立奉行は湯浅五郎正宗)、本地仏(当時の神仏習合思想)として十一面観音像
(聖徳太子御作!として崇められたという)
を造立した故事
  白河法皇建立稲荷社(山人拙画)     にある。

       
         平安朝『華麗なる一族』 

 この稲荷社と十一面観音のスポンサーとなった白皇法皇は、ご存じの通り、院政の確立者にして希代のワンマン権力者、いわば平安朝「華麗なる一族」のトップスターで、その奔放さは他に類例を見ず、近頃キムタク&欣也・コンビで高視聴率を稼いだと評判になった平成版「華麗なる一族」もその比ではない。
 例えば、『平家物語』は、法皇が寵愛した「祇園の女御
(にょうご)」を院の侍だった平忠盛に与え、後に清盛となる法皇の子が生まれたという、清盛御落胤(ごらくいん)説を採るが、この白河法皇その人と、熊野参詣に五度同道させた孫の鳥羽上皇、そしてその后(中宮)の待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)の三角関係については、現代人よりはるかに大らかな恋愛観を持っていたという平安人も流石(さすが)に眉を顰
(ひそ)
めたらしい。
 法皇は養女の璋子
(たまこ)を幼い頃から溺愛し、十七歳になった璋子を十五歳の孫、鳥羽天皇の中宮とした後も同居する無軌道ぶりで、生まれた第一皇子は実は法皇の子といわれ、鳥羽天皇も「おじ子(祖父白河の息子だから叔父でもある我が子)」と皮肉に呼んで疎
(うと)
んじたが、皇子が五歳になると法皇は鳥羽に替えて崇徳天皇として即位させてしまう。
 これを恨んだ鳥羽は、法皇が死ぬと今度は「おじ子」崇徳を天皇位から下ろし、外された崇徳はやがて「保元の乱」を起こすが敗北、配流地讃岐で憤死して怨霊伝説の主となる。
 璋子
(たまこ)自身もとかく恋多き女といわれ、今『朝日』連載中の夢枕獏作『宿神』では、璋子(たまこ)への想いを募らせる佐藤義清
(のりきよ:後の西行法師)
を呼び出し密会するという、小説らしく踏み込んだ趣向が記憶に新しい。

    エピローグー兵火・廃佛そして再生

 観音造立から
224年経った1352年、熊野別当蜂起の兵火で社もお堂も焼失し、以後仮堂舎時代が長く続くが、江戸の元和五
(1619)年頃再建(天蓋図1・2)安永三(1774)年に「霊泉寺」の寺号を許される

 明治の「神仏分離
(廃佛棄釈はいぶつきしゃく)令」で霊泉寺は廃寺となり、明治十
(1881)年創立された當村分校(山人母校)の校舎として使用されたが、観音堂と十一面観音像は、明治四十三(1910)
年、當寺境内へ移築され、今日に至る。    観音堂天蓋図2   
 実は、前述の『寺だより』「観音縁起」記事では、「稲荷の観世音」に寄せられている信仰を曇らせるのではとの狭量なる懸念から、上記のような寄進主法皇の行状について触れなかった次第。
 近年のエピソード一題。この観音様が一時姿を隠された、早い話「近頃都に流行
(はや)る」金属窃盗ならぬ、古仏窃盗の憂き目
    
観音堂        に遭われた訳だが、幸い「大慈大悲の観音力」によってであろう、無事御堂に戻られたその御姿を拝見すると、御鼻の一部欠けていた箇所が何故か綺麗に直っていたという後日譚
(ごじつたん)
がある。
 世界遺産熊野古道散策の折、是非御拝観被下
(くだされたく)御待申上候 (隆章山人九拝)
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