「佛は細部に宿る(一)」
-耳障りな「ニッポン」コール-
「陶子さん、貴女もか?」
今日(06/10/20)、NHKの特集番組「日本の力(?)」で、
不肖(ふしょう)山人が秘かにファンを自認する武内陶子アナウン
サーが、「ニッポンのお米はー」と連呼するのを聞いて、黙って
いられなくなって、とうとう「禁断の木の実」である「時事評論」の
カテゴリーを追加して投稿した次第。
以前から、NHK「その時歴史は動いた」の松平某アナウンサーが
日本を「ニッポン」読み一点張りで発音しているのが真(まこと)に
耳障(みみざわ)りであったが、「親愛なる陶子アナウンサー、貴女
もか?」である。
「美しい」は美しくない
いつからNHKは誰に断って、どういう基準で「日本」の発音を「ニッポン」に統一することに決めたのか?
どんな場合でも「日本」を「ニッポン」と読めというアナウンサーへの乱暴な強制は、日本語(にほんご!)の自然な響きに対する鈍感さ以外の何者でもない。
断っておくが、不肖(ふしょう)山人は決して「美しい日本語(にほんご)」論者ではない。「美しい」という自画自賛が決して「美しくない」ことは、かつて「美しい日本(これは「にほん」と読むのであって、まさか「ニッポン」ではないですよね、文豪!)の私」と題して講演(ノーベル賞受賞式)した川端康成が自死で生涯を閉じ、又卑近な例では、先般「絆創膏王子」の道化も登場した「美しい国」賛美のA倍某が政権を最後に投げ出したのを見ればわかる。(直近の「偽装閉店」辞任茶番劇を演じた自民F田某が「美しい国」賛美者でなかったのは不幸中の幸い以て瞑すべしか。山人、先日「完全閉店セール」なる看板を掲げる量販店に遭遇、巷の「閉店セール」がここまで進化していることに敬服しつつ、「偽装閉店」喜劇の結末は、幕間にA生某の「新装開店」笑劇を挟んで、もはや「完全閉店」の悲劇しかないと見た。諸君、馬克思「歴史は繰り返す」の箴言結びをこう書き替えよう、「一度目は喜劇として、二度目は悲劇として」と!/08神無月追白)
かのグリムでも「鏡よ、鏡よ、鏡さん、世界で一番美しいのは誰?」と自惚れるのは「性悪××」と相場が決まっている。自称「美しい××」はどうやら破綻するらしいのだ。
佛は細部に宿る
閑話休題。だが、事はわが血肉である「日本語(にほんご)」の微妙な「音感」の問題であり「聴き捨て」ならぬ。たかが、「ニッポンNIPPON」と「ニホンNIHON」の違いではないか、と曰(のたま)う御仁(ごじん)がいるかも知れぬが、この僅かな一音の差異にこそ言葉の命が宿ると知るべし。
虚勢の必然
何故「ニッポン」という促音便に統一したのか、恐らく音的に威勢がいいという度(ど)し難(がた)くも単純な発想だろう。考えてもみたまえ、「ニッポン」と発声する時、声帯が力み、喉の強(こわ)ばりが肩を怒らせ、肩の緊張で肘まで突っ張るだろう。大仰(おおぎょう)と言うことなかれ、「肩肘張る」のは、人間が虚勢を張る時の必然な機制(メカニズム)だ。
「大日本帝国」は99%「だいニッポンていこく」と読まれる、「だいニホン」と柔らかく読んだのでは、折角「大」と文字通り大きく出て踏ん反り返った甲斐がないからだ。「ニッポン」には、「Great Britain」同様、自称「グレート」の歴史的尊大さが染みこんでいる。
「ニホン」と柔らかく発音することが相応(ふさわ)しい「文脈」(前後の音と音のつながりだから「音脈」と言うべきか)でもそれを無視し、一律に硬直した「ニッポン」読みを押しつけるのは、文化の何たるかを弁(わきま)えぬ野蛮、時代遅れの言語権威主義に他ならぬ。「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の住人として、恥ずべし。
-耳障りな「ニッポン」コール-
「陶子さん、貴女もか?」
今日(06/10/20)、NHKの特集番組「日本の力(?)」で、
不肖(ふしょう)山人が秘かにファンを自認する武内陶子アナウン
サーが、「ニッポンのお米はー」と連呼するのを聞いて、黙って
いられなくなって、とうとう「禁断の木の実」である「時事評論」の
カテゴリーを追加して投稿した次第。
以前から、NHK「その時歴史は動いた」の松平某アナウンサーが
日本を「ニッポン」読み一点張りで発音しているのが真(まこと)に
耳障(みみざわ)りであったが、「親愛なる陶子アナウンサー、貴女
もか?」である。
「美しい」は美しくない
いつからNHKは誰に断って、どういう基準で「日本」の発音を「ニッポン」に統一することに決めたのか?
どんな場合でも「日本」を「ニッポン」と読めというアナウンサーへの乱暴な強制は、日本語(にほんご!)の自然な響きに対する鈍感さ以外の何者でもない。
断っておくが、不肖(ふしょう)山人は決して「美しい日本語(にほんご)」論者ではない。「美しい」という自画自賛が決して「美しくない」ことは、かつて「美しい日本(これは「にほん」と読むのであって、まさか「ニッポン」ではないですよね、文豪!)の私」と題して講演(ノーベル賞受賞式)した川端康成が自死で生涯を閉じ、又卑近な例では、先般「絆創膏王子」の道化も登場した「美しい国」賛美のA倍某が政権を最後に投げ出したのを見ればわかる。(直近の「偽装閉店」辞任茶番劇を演じた自民F田某が「美しい国」賛美者でなかったのは不幸中の幸い以て瞑すべしか。山人、先日「完全閉店セール」なる看板を掲げる量販店に遭遇、巷の「閉店セール」がここまで進化していることに敬服しつつ、「偽装閉店」喜劇の結末は、幕間にA生某の「新装開店」笑劇を挟んで、もはや「完全閉店」の悲劇しかないと見た。諸君、馬克思「歴史は繰り返す」の箴言結びをこう書き替えよう、「一度目は喜劇として、二度目は悲劇として」と!/08神無月追白)
かのグリムでも「鏡よ、鏡よ、鏡さん、世界で一番美しいのは誰?」と自惚れるのは「性悪××」と相場が決まっている。自称「美しい××」はどうやら破綻するらしいのだ。
佛は細部に宿る
閑話休題。だが、事はわが血肉である「日本語(にほんご)」の微妙な「音感」の問題であり「聴き捨て」ならぬ。たかが、「ニッポンNIPPON」と「ニホンNIHON」の違いではないか、と曰(のたま)う御仁(ごじん)がいるかも知れぬが、この僅かな一音の差異にこそ言葉の命が宿ると知るべし。
虚勢の必然
何故「ニッポン」という促音便に統一したのか、恐らく音的に威勢がいいという度(ど)し難(がた)くも単純な発想だろう。考えてもみたまえ、「ニッポン」と発声する時、声帯が力み、喉の強(こわ)ばりが肩を怒らせ、肩の緊張で肘まで突っ張るだろう。大仰(おおぎょう)と言うことなかれ、「肩肘張る」のは、人間が虚勢を張る時の必然な機制(メカニズム)だ。
「大日本帝国」は99%「だいニッポンていこく」と読まれる、「だいニホン」と柔らかく読んだのでは、折角「大」と文字通り大きく出て踏ん反り返った甲斐がないからだ。「ニッポン」には、「Great Britain」同様、自称「グレート」の歴史的尊大さが染みこんでいる。
「ニホン」と柔らかく発音することが相応(ふさわ)しい「文脈」(前後の音と音のつながりだから「音脈」と言うべきか)でもそれを無視し、一律に硬直した「ニッポン」読みを押しつけるのは、文化の何たるかを弁(わきま)えぬ野蛮、時代遅れの言語権威主義に他ならぬ。「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の住人として、恥ずべし。
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